よく話し方教室、どうすれば魅力的に相手に伝えることが出来るかということで、話し方教室がやっています。
私も20代の頃にデール・カーネギーの話し方教室に行ったことがありますが、しかし、話し方は教わってもコミュニケーションとはそもそもどういったものかについては教えてもらえませんでした。
いわば、話し方とは、それは、方法論であり、原則を学ぶことはできませんでした。
定理を教わってないのに、応用問題を解きなさいというようなものでした。
また、コミュニケーションの定義は、wikipediaでは、以下であり、当然「話し方」という自分側からの一方通行の情報伝達ではないのです。
「コミュニケーション(英: Communication、交流)とは、生命体 (人間、動物、植物、微生物等)が、感情、意思、情報などを、発信受信応答、つまりは、相互連絡関係をもとうとすること。」
英語:communication = ラテン語:communis ( common, public, 共通の) communio(交わり, comm共に unio一致)+ munitare(舗装する, 通行可能にする)
そうです。今日は、L、ロン・ハバード氏が書いた本にあるデータを紹介していくことになります。
是非、人生で使ってお役立てください。
今回は「コミュニケーション」という本からです。
この本でのポイントは、コミュニケーションの法則が完全に定義づけられていることです。これは世界初ですね。
それは以下です。
「コミュニケーションとは、源点から距離を越えて受領点へと、衝動あるいは粒子を推し進めるという考え、および行為のことであり、それには、源点から発せられたものに対するデュプリケーションおよび理解をもたらそうとする意図が伴っています。」
源点とはコミュニケーションを発する点です。
受領点とはコミュニケーションを受け取る点です。
ここでの粒子の中には言葉が当てはまります。
デュプリケーションは複製です。
意図とは、何かをしようとする意志です。
たとえば、学生時代にやる気のない先生だと、単に教科書を棒読みしていませんでしたか?そして内容がさっぱりわからなかった経験はありませんでしたか?
そういう先生は、言葉という粒子を発していますが、その内容をデュプリケートさせ、相手に理解させようとする意図がなかったのです。それゆえ、その授業はつまらないし、理解もできなかったのです。
そして試験ではつまらないし、丸暗記するだけの勉強になってしまったのです。中学の日本史の先生がそうでした。
一方、私が好きだった科目に、高校時代に漢文がありました。
なぜ、そんな難しい科目が好きになったかと言うと、漢文の先生が「鴻門の会」や杜甫や孟浩然の「春眠暁を覚えず」を朗々と語り、とても臨場感あふれる語り口で、とにかく漢文の素晴らしさと伝えよう、理解させようとする意図のある授業を行ってくれたからです。
虞美人草の元となった、垓下の戦いでの詩なんか、もうドラマのようで、本当に感激していました。
あまりにそれが好きになり、詩も覚えてしまい、台湾人の友人にあったときに、それを漢文で書いたら、びっくりしていました。
一方、大学時代のフランス語で使った教科書で、そのフランス語の女性の年輩の先生であやうく留年しそうになったのもありますが、その教材に使った教科書が、教科書というより、先生が見つけてきた本ですが、その気持ち悪さは今でも覚えています。
戦 争で身体障害者となった兵士とその妻の家庭に、戦友が毎日のように見舞に来て、その戦友と妻が恋愛関係に陥るというものでした。20代の若者がこれから希望に燃え て世の中に出て行く、そしてステキな恋愛をしようと思っているのに、そのどうしようもない無気力感がただようストーリーを選んだ先生の頭の中身はとうていコミュニケートできるようなものではありま せんでした。
完全にデュプリケートできぬものです。自分の逸脱した悪趣味をデュプリケートさせる意図があったとしか思えませんでした。(ジョークです)
ここで、また怒っている人にどうコミュニケーションをとっていくかが問題となります。
とうてい、その人の突き刺さるようなコミュニケーションは、こちらも言葉を荒げてしまいがちです。
そうすると言葉の応酬となり、まったくコミュニケーションができなくなります。
朝まで討論とかで、横からチャチャ入れてくる人ってこうですよね。
それには、秘訣があります。
<それはまた明日です、続く>